瀬戸内の釣り仙人[3]

 

Written by leon

 

音も無くメバルを抜きあげる

 

まるで昔の剣豪の「音なしの構え」のようだが、実際目にしたときは震撼してしまった。

 

メバル釣りの経験があれば誰しも思い当たるが、カサゴのようにそっくり返って固まったまま上がってくる魚と違い、メバルは抜き揚げられる寸前にたいてい尾で海面をはたいて暴れる。

 

師の妙技の余りの素晴らしさにひと時呆然とし、自分にもできるかどうか試そうなどという気持ちさえそのときは起こらなかった。

 

 

ある日は師と先輩と一緒に4人で中国山地の奥深く分け入り、アマゴ釣りを楽しんだ。

 

これは当時私の最も得意な分野だったので多少の自身もあり、なんとか「出来る」所を見てもらおうと言う野心を持って挑んだのだが、ここでまた仙人の領域を見せられることとなる・・・。

 

 

渓の翳

 

 

先輩二人がタッグを組んで下流へ、私と師は上流へ、と言うことになり、道中は4人だったがまたしても師と二人きりで竿を並べられる幸運に胸は弾んだ。

 

林道の少し開けた場所に車を止め、先輩二人はそこからそのまま斜面を下って川へと降りる。

 

師は林道の脇に沿って上流に向かって歩き始めた。慌てて後を追いながら周りを見渡すと、解禁から2ヶ月も過ぎた6月の山々は素晴らしく美しかった。新緑の時期も過ぎ、芽吹いた若葉はすっかりその羽を大きく広げ、木々の間から漏れ落ちる優しい日の光を浴びて揺れている。

 

4月の解禁当初と違い、週末だというのに既に釣り人は道中もほとんど見当たらず、踏み分けられたはずの脇道はうっすらと緑に覆われかけていた。

 

 

 

しばらく歩くとかすかに聞こえていた渓の響きがくっきりと心地よく聞こえ始めた。この瞬間も渓流釣りの醍醐味である。

 

ざーざーと言う瀬の音に混じって、断崖からなだれ落ちる滝の音も聞こえ始めた。ポイントは間近だ。

 

 

師がふと歩を止めた。

 

「いいかい、放流魚はもうほとんど釣られしまっているからね」

 

「今日狙うのは天然物か、昨年一昨年まえの生き残りだ」

 

「そういう奴は慎重で狡猾だから面白い」

 

「だからココからは歩き方にも注意を払うように」

 

ふむふむ。なるほど。

 

それは理解できているつもりだけど、お師匠はどんな技を見せてくれるのだろう。

 

と興味しんしんで師の一挙手一投足に注意を払う。

 

 

「ココで餌もつけてポイントへ向かうよ」

 

「足元に気をつけてね」

 

 

説明を終え餌をセットした竿を持ち、さらにポイントへ歩み始める師の腰がすっと低くなったような気がした。こころなしか体全体も一回り小さくなったようにも感じる。

 

さらに驚いたことに、川岸の小砂利の上を歩いているにも拘らず、足音がほとんどしない。

 

私だって渓流は結構通っているし、それなりにマスターはしているはずだけど、人間がこんなに静かに歩けるとは思わなかった。

 

そんなに「抜き足差し足」と言ったそろそろ歩きではなく、ブレの無いすっすっと平行移動するような、そう、映画でよく見る忍者のような歩き方だった。

 

ほとほと感じ入りながら後に続く私は、出来るだけ音を立てないようにおっかなびっくりのへっぴり腰になっていたのは言うまでも無い。

 

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注・この時代の、と言うより我々の上の世代の渓流名人達のいでたちの中で特筆すべきは足元だった。すでに専用の靴などが販売されてはいたが、師の足元は「地下足袋の上に草鞋」と言うスタイルだった。ワラジなどというものは既にどこの店を覗いても手に入る代物ではなかったが、ある古い一軒の釣具店のみが特注で農家に頼んで作ってもらっていた。私も早速後日から試してみたが、今日至るまでアレ以上素晴らしいものは見たことが無い。岩の形に足の裏がぴたっとフィットし、ワラは濡れれば苔の上でもグリップを保ち、おまけに足音さえ格段に小さくなる優れものだった。

 

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師はまた立ち止まった。

 

水際より5メートルほど手前だ。

 

正面には落差2メートルほどの小さい滝が二つあり、水際から落ち込みの泡の部分までは20メートル近くある。面積にして100坪ほどの「淵」を形成しておりこの川としては完全な大場所である。

 

アマゴはおそらく二つの滝が作る流れの本流脇に居るだろう。

 

 

 

「ねえ、君ならどこから攻める?」

 

「え?まあ、場を荒らさないように下手からだんだんと攻めます」「まあ、あの辺からですかね…」

 

「うん。基本だね」

 

「でもそれはあくまで基本だから、先に説明した天然や居残りの大型は難しいよ」

 

 

 

師は驚いたことに淵の終わり辺り、いわゆる瀬尻を指差した。

 

 

 

「スレた奴は慎重だから流れの中に餌を見つけても直ぐには咥えない」

 

「多分ずっと追っかけて様子を見ながらあの瀬尻辺りで食うか食わないかの決断をするんだ」

 

「でも、たいていの人は餌をアソコまでは流さない」

 

「うんと浅くなっているし、もっと如何にも釣れそうな所を流すよね」

 

 

 

師はそういうと静かに水際へと進み、私が思ったよりもずっと下手へ仕掛けを振り込み、私が思ったよりもずっと浅いところまで餌を送り込んだ。

 

水深が30センチほどしかない瀬尻に差し掛かった仕掛けは、流速を反映させて流れるスピードがグッと遅くなった。

 

目印の水鳥の羽がユラッと揺らめいた瞬間、師の右腕が流れるように頭上へ跳ね上げられた。

 

目印の真っ白い水鳥の羽は、それ自身が生きているように、まるでモンシロチョウが水面をひらひらと踊るように揺れながら、上流の滝つぼの方向へと向かう。

 

 

 

「うん、好い型だ。いきなりきたよ!」

 

 

 

異変に気づいた獲物は強引に滝つぼへとめがけてスピードを上げ、淵の王者によって命を吹き込まれた「蝶」は泡立つ水面下に引き込まれていった。

 

 

 

すべてがスローモーションで今でも私の脳裏で再生される。繰り返し繰り返し幾度と無く見返した光景でもある。

 

深山の幽谷とも呼べる渓で舞う一匹のモンシロチョウ。

 

渓谷の翳りの中に溶け込み、見えない竿と見えない糸で一匹の蝶を操る師は、まるで水墨で描かれた仙人そのものであった。

 

私の原風景のひとこまである。

 

 

 

 

Written by leon