★私の釣り人大全 そのⅡ

 

Written by leon

 

「日本の釣り」と言う文化は、世界に比類の無い高度で特殊な進化を遂げてきたように思う。

 

もちろんヨーロッパにもフライフィッシングを初めとした釣り文化は悠久の昔からあるにはあるのだが、日本のように無数のカテゴリーと、ソレに伴う道具の発達と釣り方の特殊性は恐ろしく緻密で求道的でもあり、世界の追従を全く寄せ付けないほどの独自の展開を見せてきた。

 

鮎の友釣りなどはその典型とも言えるのでは無いだろうか?・・・。

 

時の将軍家に献上するために鮎釣りを命じられた一人の釣り人が、それまでは釣る事はほぼ不可能とされていた鮎を命がけで追求し、ついに半生と言う年月をかけて「友釣り」と言う釣法を確立させる物語をいつか読んだ記憶がある。

 

~小西和人氏~

 

~鴨谷計幸氏~

 

 

昭和の40年代から50年代にかけて、日本にまた一つ新しいジャンルが確立された。

 

 

スピニングリールを使用した近代的な「投げ釣り」だ。

 

それ以前は両軸の太鼓リールや、根元が90度回転するタイプで投げていたが、海外から持ち込まれたスピニングリールは異次元の飛距離を獲得できたから、海釣りの世界がその出現で一変してしまった。

 

私もまた、投げ釣りの黎明期から創成期に青春期を迎え、その一部を経験する事になったが、道具も丁度「竹ざお」から「グラスファイバー」と言う新素材がロッドの主流を占めだし、リールも米軍が持ち込んだスピニングタイプのリールを日本のメーカーが模倣してた時代でもあった。

 

昭和42年に父の転勤で住み慣れた福岡の地を離れ、広島へ来た時に私は17歳だった。

 

竹ざおからグラスロッドに持ち替えた私は、ソレまで図鑑でしか見ることの出来なかった「ヤマメ」「アマゴ」「岩魚」が中国山地の奥深くに生息している事を知り、夢中になって渓流通いをしていたが、ある日バイト先のオジサン(ガソリンスタンドの所長)に投げ釣りに誘われる事になる。

 

その後オジサンの肝いりでクラブを結成する事になり、当時誰もが知っていた、と言うより唯一の全日本レベルの釣り団体であった投げ釣りのクラブ「全日本サーフキャスティング連盟」へ加盟する事になった。

 

そこへ二人のスーパーアングラーが居た。

 

私の最初の「師」と呼べる人であり、全日本サーフの生みの親であり、当時会長を務めていた「小西和人氏」と、福会長の「鴨谷計幸氏」だ。

 

お二人は当時毎日新聞の広島支局で新聞記者をされていた。

 

そして無類の釣り好きであったから必然的にレジャー欄へ釣りのコーナーを設ける事になり、自ら取材して記事を書くこととなる。

 

そう言った活動が昂じてついには全日本サーフと言う組織を立ち上げる事になるのだが、この時期にお二人とそのお仲間達が現在の投げ釣りの原型のほぼ全てを作ったといっても過言ではなかろう。

 

代表例を挙げるなら、未だに定番の「ジエット天秤」や「円盤天秤」はこの方達が開発された物だし、その他無数の投げ釣りリグのほとんどが、この全日本サーフに関わる人たちが開発していった・・・。

 

鴨谷さんは広島にずっと居られた事もあって、私くらいの年齢の広島の釣り人には、鴨谷さんを師と仰ぐ釣り人は数え切れないほど居る。

 

先日お亡くなりになられたと聞き心からのご冥福をお祈りしたい・・・。

 

 

一方小西氏は投げ釣りのみに囚われず、様々なジャンルへとチャレンジされていく。

 

当時としては夢のまた夢であった、「離島遠征の釣り」も小西和人氏の冒険心が現在では超有名ポイントとなっている男女群島を初めとした南方の離島の釣りのフロンティアとして開発されていった。

 

そして小西氏には、私にとっても忘れられない強烈なエピソードがある。

 

男女群島で石鯛や尾長グレのスーパーポイントを開拓していた小西氏は、ある日とてつもない磯に上がる事になる。

 

この時期のその海域には70cmを越すような石鯛も居たのでかなり強めのタックルやリグを用意していった小西氏は、その初めての磯で石鯛を狙っていて立て続けにヒットするもそれらの全てをラインブレイクで逃がしてしまった。

 

逃がしたと言うより、全く歯が立たないほどの強烈な引き込みになすすべなくやられてしまったのだ。

 

この強烈な体験に小西氏は猛然とファイトを燃やし、ロッドもフックもメーカーに特注をして異様なほど強いタックルを作ってもらい、再度チャレンジをした。

 

私はたまたまこの模様をテレビを通して見ることが出来た。

 

年配の方には懐かしい深夜番組「11PM」のフィッシングコーナーだ。

 

大橋巨泉氏が司会をし、オブザーバーとして現在も釣りビジョン等で活躍中の「服部名人」が番組を賑わせていた。

 

TVクルーと現場に着いた一行はそそくさと支度をし、そのスーパーポイントに4セットほどのタックルを磯にセットする。

 

基本的に石鯛仕掛けだったと記憶しているが、ごつい竿立て(現在のように1本ではなく、50cmほど放しての2点留めだった)を磯へ打ち込んでロッドをセットし、竿が持っていかれないように後方へピトンを深く打ち込んで竿尻と尻手ロープで接続する。

 

何があっても大丈夫な構えだった。

 

 

そしてその時が来た・・・。

 

 

垂直に切り立った磯際から、竿は約三分の一程水平よりやや上向きに乗り出しており、ラインは約45度位の角度を保っている。

 

その竿先がいきなり締め込まれる!

 

わずかに2秒ほど穂先が揺れたと思ったのもつかの間、3m間隔で4本並んだ竿の内右二本が5秒程度の間で立て続けに何かが当たり、強烈な勢いで引き込まれている。

 

釣り人は慌てて竿に飛びついたが、一本は手が届く前に大きく跳ね返って相手を失い、もう一本は血相を変えて竿を起こそうとする釣り人をあざ笑うようにさらに深く海中方向へ引き込まれ、猛烈な音と共に根元付近から破断してしまった・・・。

 

 

残る二本の竿の運命も同様の道を辿った。

 

一本は通常の石鯛仕掛け、あっという間に道糸を持っていかれる。

 

もう一本は特注の剛竿だった。

 

当然ラインもフックも特注の超ど級のタックル。

 

コレにも化物は来た。

 

この時は三人掛りだった。

 

一人が竿の根元を持ち、一人が前から肩を入れ、もう一人が上から竿を起こしに掛かったが、ズズッズズッっと引き込まれ、一体何号の糸だったのか解らないが、うめき声を上げながら奮戦する男達の努力も空しく穂先が磯際へほぼベッタリと張り付いた時点で乾いた音を立てて切れてしまった・・・。

 

何せ随分昔の事だし、ビデオをも無い時代だから一度しか見れなかった映像は、多少の脚色も含め私に上記のようなビジョンを残した。

 

そして、コレ以降、どれくらい経ってからなのか、何度行かれたのか知らないが、小西さんは暴挙に出た。

 

雑誌の紙面でも語っておられたが、「人力では無理」「磯釣りと言う範疇で取れるサイズではない」と確信し、件の磯に鉄材やセメントや溶接機材を持ち込み、造船所で見るようなウインチ着きの「ヤグラ」を立てたのだ。

 

竿やリールではなく、クレーンで釣り上げて正体を見てやろうという意地なのだ。

 

この鉄骨のヤグラは未だに男女群島のどこかの磯に立っているらしい。

また、その仕掛けで魚が釣れたと言う話もその後聞くことも無かったが・・・。

 

 

 

この話は、読まれた方に「事の是非」は問うて欲しくは無い。

 

現在であれば環境破壊と言われることはほぼ間違いなかろうが、40年近く昔の話だ。

 

日本の釣りシーンの一時期を、豪腕で駆け抜けた一人の狂の付く釣り人の話だ。

 

八丈の釣りも、小笠原の釣りも、いや、その後の海外遠征の釣りも、日本の釣り師が世界に旅立つきっかけはこの人にあっただろうし、この事件に原点を見るような気さえする壮絶な日本の釣りのひとコマだった。

 

■関連

小西和人さんのご子息「小西英人さん」のHP

http://hideto.fishing-forum.org/

 

服部名人

http://www.touen.co.jp/contents/oh%20edo/oh%20edo18.html

http://www.harry-s.net/

 

 

全日本サーフ

http://www.alljapan-surfcasting.com/

 

 

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