~釣りの自意識・美意識はさまざま~

 

昨今、私自身このHPを通じて色々な釣り人と、あるいは掲示板上で、あるいは同行するなど今までに無い交流が生まれている。そこで常々思わされる事がある。

 

釣りというものは一見同じ物を求めているように思えるが、実際にはそれぞれ微妙で複雑なものがあり、そこには実に多種多様な「意識」が存在することを…。

 

故に同じ釣り人でありながらカテゴリーによっては対立してみたり、同じカテゴリーの中でも相容れない部分も当然の如く出てしまうケースもある。

 

その意識のあり方には、釣りと言うものを趣味にして以来、如何に多くの時間をソレに裂いたか?や、数釣りや大物釣り、多様な釣り方などの「経験値」もかなり左右するようにも思える。

 

またはのめり込むことに至った経緯にも大きく左右されるようだ。さらには「釣りを通じて己の何を、己自身に、あるいは他人に、表現できるか?」といった意識も潜在的にあるであろう。

 

いわく「フライフィッシング」などはある意味代表的な個性を持っている釣りであり、例外を除いては多くの日本国内のフィールドにおいて合理的な釣方とは言い難い釣りだが、熱狂的なファンは紛れも無く存在する。

 

全てとは言わないが恐らくはフライフィッシングが持つ、投擲する際の姿の美しさやフライを自己製作する「ホビー」の要素に魅了されてのことであろうし、私自身も一時期それを美意識で楽しんだ事がある。

 

~結果が魅力?過程が魅力?~

 

「釣り」とは結果的に「魚を釣り道具で捕獲する行為」なのだが、実はここに至るまでの「過程」が「趣味の釣り」の魅力の大部分を占めるのではなかろうか?と私は思う。

 

釣りに限らず「狩猟」と言う行為は、獲物が簡単に手に入るのであればあまり面白くは無いはずである。自己の才能と、研鑚による技術と、熱意、によって、

やっと手に入るもののみが価値があるし、そうでなければ私も釣りを「趣味」とはしなかった。

 

しかし、この考えを推し進めると、あることに気付く。結果を無上とする釣り人と、

経過を重要視する釣り人の二極構図だ。この二極構図内での対立が釣りの現場で如何に多い事か!例えば「爆釣リグ・爆釣ルアー」を考案、あるいは発掘したアングラーがいるとする。

 

●ある人物はそれを自分だけのものとして、他人を上回る釣果に無上の喜びを感じる。

 

●ある人物はそれを積極的に他人に公表し、それを見つけた自分を「誇示する」ことに悦びを見出す。

 

と言った評価を時々耳にするが、果たしてこんな単純な二極的な捉え方でその釣り人を判断する事ができようか?前者が「考案・発掘」する事そのものに「釣りの悦び」を見出すタイプの人物だとすれば、おいそれとは教えはしない。なぜなれば反対の立場にたったときに「教える事」が「大きなお世話」になりかねないことを知っているかもしれないからだ。後者は誇示したいのではなく、発明者、発見者、特有の「公表→共有→発展」を潜在的に望んでいるかもしれない。

 

成果を共有する悦びと、他人の幸福を自分に反映させ得る心情の持ち主かもしれない。私のある釣友は私が見つけた爆釣ルアーを意地でも使おうとはしなかった。彼にとっては「ソレ」でいくら釣れても「楽しくない」からだ。

 

私なぞはとりあえず使ってみる。その上で「自分の中で」超える何かを発見するように試行錯誤するのが楽しみだ。また自身で見つけた有効手段も釣れ続けるとまったく飽きてしまう。前述の爆釣ルアーも最近はほとんど投げる事が無い。

 

また、ある人物は他人の「マイポイント」には決して入ろうとはしない。前述したように楽しくないからだ。あくまで自分で見出したポイントで無ければ自我が許さないからであろう。

 

ある人物は「どこ?どこで釣れる?」と始終聞き回ったり、向こうで釣れていたりすればすっとんで行ったりする。「獲物を手にする事が最大の喜び」の場合は当然こうなる。過程は二の次なのだ。

 

こう言った現象は「自分にとって何が楽しいか?」の「概念の差」から来るものであろうし、これが善し悪しを決める判断基準になることは決して無いし、また、してはならないと思う。

 

善し悪しは「自分の中のもの」だし、他人をソレに当てはめて強要しようとするとろくな事にならない。いたずらに衝突を生むだけであるし、実に不毛な作業になるだろう。

 

「概念の差」は「経験値の差」でもあると思う。一例をあげれば、一つの魚種に対して自身で納得のいく数量を散々釣った釣り人は、その後は当然シチュエーション(過程や自己規律による釣方の規範や環境)にこだわる様になる。自身に道具の種類でハンディを課したりもする。

 

一方、結果を出す事が全てのトーナメンターなどは除いて、自己満足のいくほど過去の釣果の無い釣り人は当然「結果が全て」であろうし、ハンディなどはとんでもない話で、ひたすら効率を追い求める。これ自体決して間違っているとは思えない。また、どの時点で納得満足しているかも人それぞれで、死ぬまで満足しない人もいるかもしれない。

 

結局、こう言うことを同一線上(あるいは個人的観念)で捉えようとすると、その釣り人に対して「人物の判断や認識」を見誤ってしまうということになる。

 

私自身は、ひとつの物の見方として「純粋に釣りを追及しているか?」と「他人による己の評価に釣りを利用していないか?」と言うことも自身で自答する事もある。

 

当然人間には諸欲があり、その中には名声も含まれる事は当然の帰結でもあり、誰も否定は出来ないが、少なくとも「名声の評価」は他人がするものであろう。

 

私は「釣り友達」が増えるごとにこう言った考えを改めて念頭におくようになってしまった。楽しみであるはずの「趣味の釣り」で悲しい結果を生まないために…。

 

もし「自分の釣り」に合わない事が生じれば、黙って避けて通ればそれでよい。

 

仕事と違って「概念の違う他人」とは触れ合う必要の無いところが趣味の趣味たる所以でもあろうし…。

 

Written by leon